富士山須山口登山道の起点
須山浅間神社は、須山口登山道の起点となった神社です。古くから須山口登山道を通って山頂を目指した登山者が、みそぎを行い登山の安全などを祈願しました。
須山浅間神社は社殿旧記によれば、日本武尊が東征した際創建し、欽明天皇13(552)年に蘇我稲目が再興したとされています。覆殿の中にある現在の本殿は、江戸時代後期の文政6(1823)年に建立されたと伝えられています。また、拝殿手前右側の覆屋の中には古宮とよばれる小社が安置されていて、慶長16(1611)年に建立されたものと考えられています。
社叢(※1)には、樹齢400~500年以上とされる20本程の杉の巨木があり、目通りの太さが周囲7m程のものもあります。これらの木は、神社の存在を証明する大永4(1524)年の棟札(※2)とともに須山浅間神社の歴史を物語り、厳粛な雰囲気を漂わせています。
富士山の歴史を物語る上で必要な神社や登山道が、史跡「富士山」として国の文化財(史跡)に指定されました。須山浅間神社は、信仰面での富士山の顕著な普遍的価値を証明する上で不可欠な資産であることから、境内地と社叢が平成23年2月7日に国の文化財(史跡)に指定され、構成資産となっています。また同年、6月26日、富士山世界文化遺産登録において、その構成資産として記載されました。
※1 社叢:神社を囲むようにして存在している森林
※2 棟札:神社などで、新築や修理の際、工事の由緒・年月日・建築者などを記し棟木に打ちつけた木の札
須山口登山道は、須山浅間神社を起点とし、山頂部に至った登山道です。古くは正治2(1200)年の「末代証拠三ケ所立会証文」に「東口珠山」の名前がみえます。また、京都聖護院の道興法親王の旅行記「廻国雑記」には、文明18(1486)年、須山口と推定される「すはま口」を訪れたことが書かれていて、室町時代には使用されていたことがわかります。
しかし、宝永4(1707)年の宝永の大噴火により登山道の中間部分が吹き飛ばされてしまいました。安永9(1780)年に完全復興し、富士山頂を目指す道者は、駿河をはじめ、伊勢、武蔵、上総など広く東西から集まりました。寛政12(1800)年の富士山の御縁年には、5,398人の登山者を集めました。
明治16(1883)年、須山口の二合八勺に合流する御殿場口が開設され、明治22(1889年)に東海道線(現在の御殿場線)が開通すると、現在の裾野駅からの須山口よりも距離が短い御殿場口が利用されるようになり、須山口の利用者は減少していきました。そして、明治45(1912)年に登山道の一部が旧陸軍演習場となり通行自体が困難となりました。
平成8(1996)年、須山口登山歩道保存会が発足し、翌年から平成11(1999)年にかけて、須山浅間神社から水ケ塚公園、御殿庭を経て富士宮口六合目に至る須山口登山歩道とかつての須山口を利用した須山口下山歩道が整備されました。
かつての須山口の二合八勺(標高2050m)から山頂にいたる登山道(現 御殿場口登山道)と須山御胎内周辺から幕岩上までの遊歩道が、須山口登山道として構成資産(世界遺産としての登録資産)の範囲となっています。
その他の構成資産